何かを書き留める何か

数学や読んだ本について書く何かです。最近は社会人として生き残りの術を学ぶ日々です。

2023年に読んだ本

雑な読書記録

買っても読まず、読んでも特に記録を残さずに思い出に残らないので、年単位で読んだ本と簡単な感想を残しておくことにしよう。 いつも、書評を書こうと思い立つもすぐに断念してしまうので「簡単な感想」にとどめてそのハードルを下げるのが目的である、と言っておきながら4年目である。 過去のリストは以下の通り。

特に役に立たない自分のための記録であるので適当に読み流してほしい。

田川建三新約聖書 訳と註 第三巻 パウロ書簡 その一』

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パウロ書簡のうち、テサロニケ第一、ガラティア、コリントス第一、コリントス第二の日本語訳と注釈が書かれた本である。 本の大半は注釈であり、本文の訳も相当注意深く行われているが、やはり田川訳は注釈が楽しい本である。 『新約聖書 訳と註』でも初期の刊行なので比較的、注解に関する記述は抑えめ(未発行の概論に委ねる箇所が多い)だが翻訳に影響する箇所では根拠を交え論述している。 第三巻で取り上げられたパウロ書簡はいずれもパウロ本人が書いた書簡で、口述筆記のせいか、ご本人の性格のせいか、同一書簡でも食い違う箇所があったりするのが生々しい。 パウロの考えを知る上ではガラティア、性格やら人柄を知るにはコリントス第一、コリントス第二が良いだろうか。 宗教的な到達点はやはりローマ書簡であり、これは第四巻で扱われる。

購入したのは3, 4年前ぐらいで第一巻(マルコ、マタイ)、第二巻上下(ルカ、使徒行伝)、第六巻(公同書簡)は読んだが、パウロ書簡は(なんとなくヤコブ書の影響を受けたのか?)後回しになっていた。

鈴木忠平『虚空の人』(文藝春秋

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筆者買い。 副題の「清原和博を巡る旅」にある通り、清原和博が逮捕されてから執行猶予が明けるまでの4年間のノンフィクション。 清原本人への取材や彼を支える人々、かつて彼に関わった人々への取材を通して清原和博の内面に迫ろうとした本である。 執行猶予が明け、新たな、希望に満ち溢れた生活が...のようなわかりやすい、ハッピーエンドのような話ではなく、かと言って完全に終わってしまったんだな、という訳でもなく、読んでいて一体どこに着地するのか全く分からない、読了後もなんともすっきりとしない本である。 すっきりはしない本だが、本を持つ手を離させず、ぐいぐいと引き込まれる文章はやはりよい。

呉座勇一『『鎌倉殿の13人』で学ぶ日本史』(講談社

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筆者買い、かつテーマ買い。 電子書籍限定、というよりは現代新書のWebサイトの連載をまとめたもの。 昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代である平安末期から鎌倉初期にかけての歴史解説本である。 『鎌倉殿の13人』はもちろん、同著者の『頼朝と義時』の副読本としても読める。 内容はドラマの1, 2話を区切りに劇中で描かれた出来事の解説や史実(資料)との違いなどの解説である。 1年間熱心に見てきたドラマだけあってこの書籍も面白いし、『鎌倉殿の13人』も史実や資料からそこまで離れずに作劇されているというのもなんとなくわかった。 読もうと思えばWebの連載で読めるので購入する必要はないかもしれないが、筆者への労いも込めて購入して読んでみてほしい。

加藤隆『旧約聖書の誕生』(筑摩書房

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ちくま学芸文庫だが、読んだのは電子版。 旧約聖書の中身、つまりどういうことが書いてあるか、ではなくて、旧約聖書がどのようにして成立したか、というのを説明する本である。 聖書はありがたいことが書いてあるんですよ的な本ではない。 旧約は創世記から始まるが、歴史的な流れに沿った説明で、まずは出エジプト記の元になったエジプトからの脱出から始まる。 分裂後の北王国の滅亡と坩堝政策、南王国のバビロン捕囚を経て古代イスラエル宗教とも呼べる状態から、アイデンティティを保つために今日のユダヤ教に変化する、というのは過去に読んだ『ヤバイ神』と概ね似たような流れである。 当時の戦争は神同士の争いでもあった。別に神様同士がステゴロで戦うのではなく、自分たちの神が勝たせてくれるから、勝利したほうの神が勝つ、という論理である。 その論理だと北王国の滅亡やバビロン捕囚を経たユダヤの神は負けたのでは、という話になる。 そこで、アイデンティティを保つために神が負けたのではなく自分たちに悪いところがあったんだ、という風に論理をすり替えるというか、考え方を変えていく。 その過程で旧約聖書を形作る伝承や資料がでてきて、筆者の仮説だがペルシャ帝国の政策によってユダヤ人を律する法典を求められて、そこで複数の資料や伝承を組み合わされて(旧約)聖書と呼ばれるものができた、という流れ。 旧約聖書の成立をペルシャ帝国の裏付けという政治的な要因から説明しているが、その根拠というか想像の理由にあるのがペルシャ帝国のエジプト統治の手法においている。 それは、ペルシャ帝国がエジプト王朝を断絶させず、継続した王朝としたから、というものである。 説明としてはわかるが、せめてペルシャ帝国側の資料、たとえばパピルスとか石板とか粘土板みたいなものが発見されればよいのだが。

加藤隆『『新約聖書』の誕生』(講談社

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講談社学術文庫だが、読んだのは電子版。 新約聖書の中身、つまりどういうことが書いてあるか、ではなくて、新約聖書がどのようにして成立したか、というのを説明する本である。 『旧約聖書の誕生』の続きのようなテーマだが、そこまで関連性はない。 新約聖書というよりも、初期キリスト教というか、紀元前後あたりの歴史や政治的な動きを中心に新約聖書という書物が成り立つまでの流れを推測を交えて解説する本である。 イエス自身は特に新たな宗派や宗教を立ち上げたというよりは言わばユダヤ教の熱心派のような動きをしていた、という考察は面白いと思った。 その後、ユダヤ教ナザレ派とでも呼ぶべき集団となり、ユダヤ戦争を経てユダヤ教ファリサイ派が中心となってキリスト教へと分離し、マルキオン聖書がきっかけで聖典をまとめようという機運が...というのが雑なまとめになるだろうか。そこそこのページ数はあるが意外とすぐに読めた。

有隣堂YouTubeチーム『老舗書店「有隣堂」が作る企業YouTubeの世界』(ホーム社集英社

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神奈川県横浜市伊勢佐木町に本店がある有隣堂YouTubeチャンネル「有隣堂しか知らない世界」のチャンネル開設時から登録者数20万人達成までの流れを担当者が振り返る本。 合間に出演者や有隣堂社長、プロデューサや中の人のインタビューが挟まる形式。 有隣堂は高校時代に横浜に行く際は大抵ジョイナス有隣堂に向かっていた(横浜そごうにある紀伊國屋にも行っていたが)。 また、高校の図書室の買い出しで伊勢佐木町の本店にも行ったことがある。 司書教諭が本店の向かいにある喫茶店でお茶をおごってくれたのを覚えている。 「有隣堂しか知らない世界」は企業のYouTubeチャンネルとしては異色で宣伝色がほぼなく、有隣堂のスタッフや出版社の編集者、食品会社の社長などが各々好きなものについて語る構成になっている。 確か、Twitterで「有隣堂YouTubeチャンネルが面白いぞ」という話を見かけて見始めた。 当然、有隣堂は知っていたので見てみたら、テレビ神奈川でやっていたsaku sakuのフォーマットでびっくりした思い出がある。 有隣堂の社員と外部のスタッフであるプロデューサや中の人の間の信頼関係が強く、それが「有隣堂しか知らない世界」の面白さの土台になっている、というのが本を読んで感じた要素である。

バート・D・アーマン『書き換えられた聖書』(ちくま学芸文庫

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新約聖書の本文批評の専門家による新約聖書の写本や聖書の改変・改竄の歴史についての本。 文庫化前の邦題は『改竄された聖書』であり、よりストレートな書名だったが、文庫化の際に改題した模様である。 西洋における活版印刷グーテンベルクを待たなければならず、それまでは人の手によって聖書の写本が脈々と受け継がれていった。 つまり、手作業によるミスは発生しうるのである。 また、偶発的なミスではなく意図的に書き換えたり加筆削除したりして作業者やそのグループの考えや意図を本文に入れるということも行われた。 著作権もない時代ならばそんなこと当たり前だと思うのだが、聖書の場合はそう簡単には片付けられない問題なのである。 筆者は元々アメリカの福音主義(たぶんファンダメンタリズム?)の立場から聖書研究を始め、次第にその考えに疑問を抱くようになり...という筆者の「告白」が長いまえがきにある。 筆者が至った結論は個人的には普通であるのだが、福音主義という立場から学術的なアプローチから疑問を抱いてその結論に至るというのは非常に感銘を受けた。 写本に関する基本的な知識は田川建三『書物としての新約聖書』でだいたい知っていたので新たな発見!というのはなかったが、非常に面白く読めた。 マルコ1章41節の考察は面白かった。イエスは憐れんだのか、怒ったのか。 意味的な考察は注解書を読まないとわからない(ので田川建三『マルコ福音書 上巻』の該当箇所を読んだ)が、本文は「怒った」なのだろう。

バート・D・アーマン『キリスト教の創造』(柏書房

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新約聖書やその外典、偽典に関する一般向けの本。 副題は「容認された偽造文書」という刺激的なものである。 ここでいう偽造とは、筆者自ら著者名を偽ったもので、マタイのように後から筆者をあてがわれたものについては偽造とまでは言っていないが、擬似パウロ書簡やペテロ書簡一・二についてははっきり偽造と言っているのがすごい強気であると感じた。 まあ、著者名を偽って自説を広く伝えようとしたのだから偽造である。 本文は、古代における文書偽造の立ち位置(当然、悪いこととされていた)、ペテロやパウロの名前で生み出された文書について、現代の護教的な立場からの説明への反駁、ユダヤ教や異教徒と戦うための偽書など、新約聖書には著者名を偽った文書が収められていることを根拠を示しつつ説明する。 筆者曰く、使徒行伝もルカまたはパウロの伝道旅行の同伴者を騙った偽書である、と結論付けていたが、個人的には違うと思う。 無理してパウロを持ち上げる必要もないと思う。 持ち上げたくなる理由も一応わかるのだが。

高田裕美『奇跡のフォント』(時事通信社

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UDデジタル教科書体の開発者による開発秘話。 筆者が書体デザイナーになる前(高校時代)から話が始まり、師匠との出会い、社会に必要とされるフォント制作などの話題が概ね時系列順に進み、合間に関係者によるコラムが挟まる形式。 UDデジタル教科書体はタイプバンクのフォントであり、開発途中でモリサワに買収されることになる。 書籍の後半ではモリサワと筆者のUDデジタル教科書体の開発を巡る緊張関係が中心であり、ドキドキする内容である。 テーマはまったく異なるが、『老舗書店「有隣堂」が作る企業YouTubeの世界』とある意味では形式が同じである。 現代の明るいノンフィクションはこういう流れが一般的なのだろうか。

安田峰俊『北関東「移民」アンダーグラウンド』(文藝春秋

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筆者買い。 北関東(主に群馬県茨城県)に根を張るボドイ(ベトナム語で兵士の意味)たちの実態を描いたルポタージュ。 ボドイとは技能実習生制度で日本にやってきたベトナム人で脱走などで不法滞在または不法就労状態になった人たちを概ね指す。 筆者とカメラマン、通訳の3人んでボドイが住む家にお土産片手に突撃取材をしたり、技能実習先の企業を取材するなど、ルポタージュに相応しい取材を重ねて出来た本である。 そんなに?というぐらい彫物を入れた人物が登場する。 出版社の説明にはラスボスのように描かれる「群馬の兄貴」は本の中盤に登場するが、指定暴力団の組長へのインタビューを読んでいるかのような気分になった。 色々と法律を犯し続けるボドイであるが、別にベトナム人特有の話ではなく、今までは似たような立場にいた中国人が経済成長に伴って技能実習生の顔ぶれが変わっただけである、という。 つまり、技能実習生のような仕組みが存在する限り、顔ぶれが変われど、似たような事象は起こり続けるのだろう。 文体はどこか明るく、楽しく読めるのだが、読了後の気分は暗くなる本である。

ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』(みすず書房

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数値によるパフォーマンス測定への固執がもたらす弊害を歴史や哲学、実例を交えて説明する書籍。 説明責任や透明性という大義名分の元に測定可能な要素で説明責任を果たそうとしたり透明性を確保しようとする。 それは本当に効果がでているのだろうか、弊害が出ていないだろうか。 測定そのものではなく測定基準への執着に伴う弊害がある、と筆者は根拠を交えて主張する。 事例は主にアメリカやヨーロッパにおけるものだが、大学や学校(高校まで)、ビジネスの分野における事例は日本でもまったく同じ状況にあると思う。

普段の仕事で考えてみると、例えばコードの行数は間違った指標になり得る、と感じた。 コードが複雑度を示す指標にはなるかもしれないが、書いた行数でプログラマを評価しようとした途端におかしなことになる。 ユニットテストカバレッジ率、バグ発生率、対応したIssue/PRの数も似たようなことが起き得る。 工数や工期も目安にはなるが、気を付けないと変なことが起きそうである。

本当に時間がないときは、「はじめに」、Part1「議論」、Part4「結論」だけでも読むと『測りすぎ』が言わんとしていることがわかると思う。 理想なのは会社の管理者の方に読んでもらうのが一番良いのだが、まあ全員で読んで考えを共有するほうがよさそうではある。

Michael Hausenblas『入門 モダンLinux』(オライリー・ジャパン

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オライリー・ジャパンさんから頂いた。 感想は別エントリに書いた。 xaro.hatenablog.jp

ラッセル・A・ポルドラック 『習慣と脳の科学』(みすず書房

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電子書籍で読んだ。 大部分を占める第一部で習慣に関する性質や仕組みを脳や心理学に基づいて、研究成果を踏まえて解説する。 第二部はそれを踏まえて、習慣を変える方法や変えるかもしれない研究成果についての説明がある。 延々と脳や心理学の説明が続く、つまりカタカナがどんどん出てくるので覚えようとして読むと相当辛いと思うが、色々研究が進んでいるんですね、と、とりあえず納得して読み進めると面白く読めると思う。 最近の一般向け科学啓蒙書のトレンドかもしれない(みすず書房の傾向かもしれない)が、明確な結論や手法はなく、研究成果をある意味で公平に整理して説明する本であり、わかりやすい結果はほとんどない。 第8章ぐらいである。 それでも、ビジネス書によくある、MITやらスタンフォードがどうした、最新脳科学が伝える最強の習慣、みたいなしょうもない本とは一線を画す、一般向けでありつつも科学的に真摯にテーマについて扱う本である。 ひとまず、悪い習慣を直すのは難しいなあ、という小学生並みの感想を抱きつつも、8章にあるような事柄を意識していければと思う。

木村茂光、小山俊樹、戸部良一深谷幸治 編『大学でまなぶ日本の歴史』 (吉川弘文館

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帝京大学の一般教育科目「日本史」、専門基礎科目「日本史概説」の講義用テキスト。 原始古代、中世、近世、近現代の四部構成で全41章だが、そのうち15章を近現代史に費やしている。 「現代」という視点が重要である、ということこうなったらしいが、実際にそうだとしても単純に資料の有無、豊富さの違いではないだろうか。 中世までは資料が近世、近現代と比べて少なく、想像というか推測が占める割合が大きくなるのではないだろうか。 実際、中世までは「かもしれない」という記述も散見されるが、近現代では資料の豊富さや筆者の思い?もあって具体的かつ筆者の評価めいた記述も増えてくる。 大学で学ぶ歴史としては比較的あっさりしているが、科目名からおそらく教養科目、入門科目なので内容としては良いと思うが、大学の歴史専攻の学生が学ぶ本としては物足りない。

井上光貞 『日本の歴史 神話から歴史へ』(中央公論新社

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『大学でまなぶ日本の歴史』で満足できなかったので、色々調べて評判が良いらしい中公文庫の『日本の歴史』を読み始める。 軽い気持ちで8巻まで購入したが、1冊がそれなりに分厚いので、全巻読み通すのは大変である。 今年中には読み終わらないだろう。

古事記日本書紀でのみ語られる時代から6世紀末までの日本の歴史を、神話や考古学の成果を交えつつ論ずる本である。 小中学校の歴史だと古墳時代は概ね古墳がありました、埴輪などが埋められていました、昔の偉い人のお墓です、ぐらいの解像度で進み、高校の日本史の授業中に菓子パンを食べていた(1回だけだが)ような人物にはそれ以上の知識がなかったが、それでも面白く読めた。 いかんせん確実な資料が少なく、記紀も編集者の意図が色濃く反映されているのでこの時代は推測が多い。 確実な資料が増えてくるのは7世紀ぐらいからであり、かつ『日本の歴史 神話から歴史へ』が1964年に書かれた相当古い本であることもあり、現在の学説は異なるのであろう。 とはいえ、筆者は執筆時点の成果に基づいて根拠を示して説明するので納得感は強い。 確かに邪馬台国は九州にありそうな気がしてきた。 個人的には、邪馬台国の学説と学閥が密接に関連するという説明が面白かった(東大が九州説、京大が近畿説、筆者は東大卒)。 『日本の歴史 神話から歴史へ』から津田左右吉記紀に関する研究にも興味を持ち、古本を購入予定であるが、果たして読む時間はあるのだろうか。

直木考次郎 『日本の歴史 古代国家の成立』(中央公論新社

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『日本の歴史』の2冊目。 分冊ごとに著者が異なるので、最初はその変化になれないが、やはり面白く読めた。 手元にあるのであと6冊だが、シリーズとしてはあと24冊ある。

時代としては古墳時代の538年から持統天皇が退位するまでの697年まで。 1冊目の『日本の歴史 神話から歴史へ』はスケールが長かったが、『日本の歴史 古代国家の成立』は1冊で150年ぐらいしか進まないので歩みがゆっくりだなと感じる。 聖徳太子が世間で言われるほど活躍していない、文部省(文科省ではない!)は弘文天皇が即位したと主張しているがそれは『大日本史』の影響であり、云々という主張は面白かった。 白村江の戦い以降、朝鮮半島から手を引いて内輪もめというか、豪族と皇族の緊張関係が延々と続き、それが終わっても皇族同士の緊張関係が続く150年であった。

青木和夫『日本の歴史 奈良の都』(中央公論新社

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『日本の歴史』の3冊目。 701年から770年まで、奈良時代の話。

資料が少ない1巻や2巻では筆者の推測が多かったが、資料が増えてくる奈良時代となると、その大量の資料に基づく推測が増え、それはそれで大変である。 当時の政策の解説や考察が長く、全く異なる本だがレビ記民数記を思い出した。 藤原氏が幅を利かせたり、道境が登場するなど八世紀後半はドロドロとした展開が続く。 孝謙天皇の名付けセンスがかなりアレでアレだった。 和気清麻呂別部穢麻呂とか。

面白かったのは、所々、筆者の青木氏が正倉院の調査に関わった際の思い出話が入るところである。 歴史書を読んでいるとはいえ、個人の感想が強く出る文章もたまには読みたくなるものだ。

北山茂夫『日本の歴史 平安京』(中央公論新社

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『日本の歴史』の4冊目。 770年から967年まで、平安時代の話。

延々と平安時代の話が続く。 律令体制から藤原氏による摂関政治への過渡期というか、あまり藤原氏が権力を掌握していく一方で本人が何か目立ったことはしないので読んでいて盛り上がらない。 外征があったぐらいだろうか。 『日本の歴史 平安京』は、『日本の歴史 奈良の都』とは異なり、個人の感想というより個人の思想が強く出ているような気がした。 平安京周辺では詩宴や仏事、歌合と楽しそうなイベントがある中で、地方の状況に目を向けた際の北山氏の記述にそれが表れている。

将門記』の筆者について、北山氏が推論している記述が印象的だった。

坂東の武人はおそらく、ここに引証した仏典上の知識をもちあわせていなかったであろう。そこに、はからずも覆面の作者がおのれの体臭を発散しているのである。つまり『将門記』の作者は、坂東の勇者将門の事歴によく通じ、かれに深い関心をよせた仏徒であった。作者の脚色が、この瞬間の将門の像と王統受領の後裔らしい自負を、なまなましく再現している。

土田直鎮『日本の歴史 王朝の貴族』(中央公論新社

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『日本の歴史』の5冊目。 966年から1068年まで、最初から最後まで藤原道長の話。

延々と藤原道長の話が続く。 個人的には、なぜ天皇外戚が実権を握れるのか、という説明が興味深かった。 要は当時の婚姻制度や結婚後の生活形態に深く結びついている故であった。 また、『王朝の貴族』は平安時代における政所政治を否定した本としても有名らしい(実際は論文だと思うが)。 実際、天皇は傀儡ではなく、摂政関白と協議しつつ政治を進めるなど、一定の緊張関係が成り立っている。

本文中では大鏡栄花物語などの物語よりも当時の日記類を重視すべきだ、とあるが、実際の『王朝の貴族』では物語からのネタがかなり多い、という指摘が解説にあった。 これは矛盾というよりは歴史のプロ向けとアマチュア向けの意識の違い、大正生まれの知識エリートとしての自己認識ではないか、と解説者(土田直鎮氏の弟子筋の方)は述べている。

スティーヴン・キング死のロングウォーク』(扶桑社)

https://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594004538

1979年にリチャード・バックマン名義で出版されたスティーヴン・キングの小説で、実際に書かれたのは1967年の大学1年生という作品。 『死のロングウォーク』を読んだのは2回目であり、1回目は中学生の頃、朝の読書時間という謎の取り組みで読むための本として親が貸してくれた時だった。 大まかなあらすじは覚えていたが、細かい話の流れはやはり忘れていたのでドキドキしながら読めた。 『死のロングウォーク』が不気味なのは、なぜロングウォークなるイベントがあるのか、なぜそれに参加するのか、それがはっきりと明かされないところにあると思う。 不気味な設定の下、登場人物たち、とくに主人公であるギャラティが何を考えているのか、何を感じているのか、参加者同士の会話などでぐいぐい読者を引き込んでいく。

中学校の朝の読書時間、『死のロングウォーク』や松尾芭蕉の『奥の細道』、星新一ショートショート、を読み、最終的にはアイザック・アシモフアシモフの雑学コレクション』を読んでいた。 『アシモフの雑学コレクション』は単純に面白く、5分しかない読書時間でもキリよく読めるのでぴったりだった。

カール・ヘラップ『アルツハイマー病研究、失敗の構造』(みすず書房

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アルツハイマー病の研究の現状報告というか、告発というか。 アミロイドカスケード仮説と呼ばれる仮定にオールインした結果の歪みがこれでもかもでてくる。 例えば、 ごく最近(2023年8月)に日本でもアルツハイマー病の新薬に関する報道があったが、これも恐らく結果としてうまくいかないのだろう、という感触を覚える。

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最後にはアミロイドカスケード仮説に代わる筆者が提案したモデルがあるが、これの妥当性については何とも言えない。 本書P.46に「DNAに暗号化されている」みたいな記述が出てくるが、codeまたはencodeを暗号化と訳出している?符号化じゃないか? 本書後半には「符号化」という言葉がでてくる。

パピヨン本田『美術のトラちゃん』(イースト・プレス

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Twitter上で有名かもしれない「美術のビジュえもん」のパピヨン本田氏によるWeb連載漫画『美術のトラちゃん』をまとめたもの。 単に漫画をまとめたのではなく、膨大な元ネタやその解説が異常に充実していて、2ページ程度の漫画をまとめた本とは思えないぐらいの密度を誇る。 新宿紀伊國屋でも8Fの漫画売り場ではなく、5Fの芸術書売り場にあるなど、漫画というより現代美術の入門書でもある。 元々の設定が中島敦山月記』をベースにしているなど、筆者の知識がさりげなくちりばめられている面白い本である。 美術の本なのに文字がびっしりとは不思議な気がするが、このように感覚的な事柄を文字に起こせるというのはすごい能力であると感じた。

呉座勇一『動乱の日本戦国史』(朝日新聞出版)

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戦国時代の合戦について、従来の通説への批判と最新の研究について紹介する新書。 雑誌『一冊の本』の連載と書きおろしからなる。

6章までは、日本陸軍参謀本部『日本戦史』や徳富蘇峰『近世日本国民史』や、それを無批判に取り込んだ時代小説が生み出した通説への批判から成り立っている。 毎章、レギュラーとして登場する徳富蘇峰のすごさにも驚く。 戦前の合戦研究は軍記物を取り込んでいるため、ざっくり言えばGarbage In, Garbage Outに陥っている、という話である。 時代小説ならまだしも、教科書にも入り込んでいるので中々厄介な話である。 7章はやや異色で、豊臣秀吉に関する「惣無事令」論を巡る論考で、これはこれで論理的に迫るもので面白かったが、研究としては前提が崩れているので今後どうするんだろう、とも思った。

宮脇俊三最長片道切符の旅』(新潮社)

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北海道の広尾線広尾駅から鹿児島の指宿枕崎線枕崎駅までの最長片道切符に挑む紀行文。

2023年10月に旅行に行くので、予習というか、雰囲気を楽しむために読む。 1978年当時の記録であり、今日では見ることができない路線の雰囲気が楽しめる。 そもそも、広尾線は1987年に廃線となった。 グラフ理論としては、重み付きグラフの最長パスを探す問題で今となっては大変ではないと思うが、計算機もない状況でそのルートを探索するのは大変だろう。 解説で、宮脇氏の下でパンチカードが届いて驚いたという記述があったが、いきなりパンチカードを渡されても困るだろうなと思った。 個人的には、稚内駅から枕崎駅まで最速で移動したい、つまり稚内-旭川-札幌-新函館北斗-東京-新大阪-鹿児島中央-枕崎、というルートで移動してみたい。 東京からサンライズに乗って深夜に岡山に移動すると効率が良いらしいが、JR各社をまたぐ切符の予約が面倒そうで手が出ない。 家の最寄の新幹線駅から稚内、枕崎は一応1日で移動できるらしいが、ここまで移動に特化した旅行は果たして旅行と呼べるのだろうか。

宮脇俊三『時刻表2万キロ』(河出書房新社

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中央公論の編集者であった筆者のレビュー作にして、編集者から紀行作家へ転身するきっかけとなった作品。 国鉄全路線に乗る(完乗)ことを目的に、休日の合間を縫って未乗の路線への旅を続ける。 国鉄時代の紀行文であり、例えば第7章の北海道の炭鉱路線に乗る回では、すでに現存しない路線ばかりである。 未乗の路線すべてに言及しているわけではなく、単にいつどの路線に乗った、という事実だけかかれた部分もある。 未乗の路線に乗るべく、時刻表や時にはタクシーを駆使して乗りこなしていく。 淡々とした文章であるが、読んでいてとても楽しくなる文章である。

虚構新聞出版『中学歴史 新しい歴史 第1巻[古代]』

有名なパロディサイト「虚構新聞」の出版部門である虚構新聞出版から出た文科省未検定非公認教科書。 裏表紙に「この教科書はこれからの担うみなさんへの期待を込めて作りましたが、税金によって支給されていません。」とある通り、中学校の歴史の教科書のパロディである。 中学校の歴史の教科書に何が書いてあったのか覚えていないが、中央公論の『日本の歴史』で読んでいた時代なので、面白く読めた。 孔子を「先輩絶対服従主義」とこき下ろす(僕もそう思う)、「鳴くよウグイス平城京」「何と大きな平安京」という意地が悪い見出し、日本書紀によると初代から9代の天皇の平均寿命が106歳である事実を書く(例えば、津田左右吉古事記及び日本書紀の研究』 参照)など、虚構新聞らしいユーモラスな視点で中学校の歴史を学べる本、だと思う。 ネタを挟みつつコンパクトにまとめるのは意外と大変そう。

Ronald Cummings-John, Owais Peer『LEADING QUALITY』(アスキードワンゴ

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書店ジャケ買い。 品質に関するリーダーシップというか、チームや組織に品質の重要さや価値を伝えて、それを広げていくにはどうしたらよいか、というのを記述した本。 徹底して製品やサービスを使うユーザ視点にたった品質を重視している。 エンジニアが読むような本ではユニットテストなど、テストをどうするかという観点が多いが、この本は主にリーダー層に向けて書いてあるのが特色である。 興味深い内容ではあるものの、どうも読みにくかった。 ハッキリと言えるのは、訳注が本文中に、本文と同じサイズで組版されているので、訳注に遭遇するたびに思考というか、読みを中断させられるのが中々ストレスだった。 訳注は角括弧で囲んではあるものの、複数行にわたる訳注だとどこまでが訳注でどこまでが本文なのかが視覚的にはっきりしない。 コンテキストスイッチをカチカチするストレスはやはり大きい。 訳注を本文に組み込むなら本文よりもやや文字を小さくするか、脚注や傍注に送る、参考文献のように最後にまとめて、といった方法があると思う。 原注は参考文献形式だったので、原注と訳注をはっきり分けたい故かもしれないが、まあストレスだった、というのが正直な感想である。

浅野裕一儒教 怨念と復讐の宗教』(講談社学術文庫

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元々は平凡社新書儒教 ルサンチマンの宗教』で、発刊後に見つかった資料を元に加筆改題したもの。 タイトルに「儒教」とあるが、儒教とは何か、というより儒教が成立した背景や儒教に関わる人々に着目した本であり、儒教の教えなるものを知るには役に立たない。 そして、この本を読むと儒教の教えなるものに対して興味を失うのではないだろうか。 大きすぎる矛盾を抱える孔子、矛盾を何とかしようとする後学の人々、最初の3章は読んでいてめまいがする。 筆者の視点は穿ちすぎだが、論拠は『論語』にある以上、言動と実際が伴っていないのは現実であろう。 昔から、『論語』は説教臭くて読む気が起きず、結局、中国古典は『荘子』の内篇しか読めていない。 批判的な視点から『論語』を読んでみたくもあるが、そんな『論語』は存在するのだろうか。

清水俊史『ブッダという男』(筑摩書房

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ちくま新書電子書籍で購入。 初期仏典を批判的に読むことで、従来のブッダの人物像を退けて、ブッダの歴史的先駆性や革新さに迫る本。 仏教に関する入門書や学術書は初めて読んだので、従来の研究をまったく知らず、分析の新規性や妥当性まではわからないが、現代とは違う時代や価値観で生きているブッダに現代的な価値観や立場を持たせようとする評価を批判するのは当然だろうな、と思った。 知らない仏教用語や概念が多く、それを補いつつ読むのは大変だが、過去の研究を根拠を以って批判して新たな見解を示すというのは、分野はまったく違うが呉座勇一氏の本を読んだ時と似たような面白さを感じた。 この本のもう1つの目玉?は「あとがき」にある学会におけるアカデミックハラスメントの告発である。 この告発であるべき姿になるとよいと思うのだが、果たして。

安田峰俊『戦狼中国の対日工作』(文藝春秋

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筆者買い。 文春新書で電子書籍で購入。 タイトルの通り、「戦狼外交」と呼ばれる中国の攻撃的な外交の実態についてのルポタージュ。 対日工作の拠点と思われる場所に突撃して取材したり、駐日大使にインタビューしたり、反体制活動家にインタビューしたり、筆者の面目躍如な新書である。 出版社の煽り文よりは読了後の不安はなかったが、それでも今後意識しておくべき事柄が多いと感じた。 個人的には、体制に媚びる日本人の取材の様子を見て、筆者のルポライターとしての姿勢を感じて面白かった。