雑な読書記録
買っても読まず、読んでも特に記録を残さずに思い出に残らないので、年単位で読んだ本と簡単な感想を残しておくことにしよう。 いつも、書評を書こうと思い立つもすぐに断念してしまうので「簡単な感想」にとどめてそのハードルを下げるのが目的である、と言っておきながら4年目である。 過去のリストは以下の通り。
特に役に立たない自分のための記録であるので適当に読み流してほしい。
田川建三『新約聖書 訳と註 第三巻 パウロ書簡 その一』
パウロ書簡のうち、テサロニケ第一、ガラティア、コリントス第一、コリントス第二の日本語訳と注釈が書かれた本である。 本の大半は注釈であり、本文の訳も相当注意深く行われているが、やはり田川訳は注釈が楽しい本である。 『新約聖書 訳と註』でも初期の刊行なので比較的、注解に関する記述は抑えめ(未発行の概論に委ねる箇所が多い)だが翻訳に影響する箇所では根拠を交え論述している。 第三巻で取り上げられたパウロ書簡はいずれもパウロ本人が書いた書簡で、口述筆記のせいか、ご本人の性格のせいか、同一書簡でも食い違う箇所があったりするのが生々しい。 パウロの考えを知る上ではガラティア、性格やら人柄を知るにはコリントス第一、コリントス第二が良いだろうか。 宗教的な到達点はやはりローマ書簡であり、これは第四巻で扱われる。
購入したのは3, 4年前ぐらいで第一巻(マルコ、マタイ)、第二巻上下(ルカ、使徒行伝)、第六巻(公同書簡)は読んだが、パウロ書簡は(なんとなくヤコブ書の影響を受けたのか?)後回しになっていた。
鈴木忠平『虚空の人』(文藝春秋)
筆者買い。 副題の「清原和博を巡る旅」にある通り、清原和博が逮捕されてから執行猶予が明けるまでの4年間のノンフィクション。 清原本人への取材や彼を支える人々、かつて彼に関わった人々への取材を通して清原和博の内面に迫ろうとした本である。 執行猶予が明け、新たな、希望に満ち溢れた生活が...のようなわかりやすい、ハッピーエンドのような話ではなく、かと言って完全に終わってしまったんだな、という訳でもなく、読んでいて一体どこに着地するのか全く分からない、読了後もなんともすっきりとしない本である。 すっきりはしない本だが、本を持つ手を離させず、ぐいぐいと引き込まれる文章はやはりよい。
呉座勇一『『鎌倉殿の13人』で学ぶ日本史』(講談社)
筆者買い、かつテーマ買い。 電子書籍限定、というよりは現代新書のWebサイトの連載をまとめたもの。 昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代である平安末期から鎌倉初期にかけての歴史解説本である。 『鎌倉殿の13人』はもちろん、同著者の『頼朝と義時』の副読本としても読める。 内容はドラマの1, 2話を区切りに劇中で描かれた出来事の解説や史実(資料)との違いなどの解説である。 1年間熱心に見てきたドラマだけあってこの書籍も面白いし、『鎌倉殿の13人』も史実や資料からそこまで離れずに作劇されているというのもなんとなくわかった。 読もうと思えばWebの連載で読めるので購入する必要はないかもしれないが、筆者への労いも込めて購入して読んでみてほしい。
加藤隆『旧約聖書の誕生』(筑摩書房)
ちくま学芸文庫だが、読んだのは電子版。 旧約聖書の中身、つまりどういうことが書いてあるか、ではなくて、旧約聖書がどのようにして成立したか、というのを説明する本である。 聖書はありがたいことが書いてあるんですよ的な本ではない。 旧約は創世記から始まるが、歴史的な流れに沿った説明で、まずは出エジプト記の元になったエジプトからの脱出から始まる。 分裂後の北王国の滅亡と坩堝政策、南王国のバビロン捕囚を経て古代イスラエル宗教とも呼べる状態から、アイデンティティを保つために今日のユダヤ教に変化する、というのは過去に読んだ『ヤバイ神』と概ね似たような流れである。 当時の戦争は神同士の争いでもあった。別に神様同士がステゴロで戦うのではなく、自分たちの神が勝たせてくれるから、勝利したほうの神が勝つ、という論理である。 その論理だと北王国の滅亡やバビロン捕囚を経たユダヤの神は負けたのでは、という話になる。 そこで、アイデンティティを保つために神が負けたのではなく自分たちに悪いところがあったんだ、という風に論理をすり替えるというか、考え方を変えていく。 その過程で旧約聖書を形作る伝承や資料がでてきて、筆者の仮説だがペルシャ帝国の政策によってユダヤ人を律する法典を求められて、そこで複数の資料や伝承を組み合わされて(旧約)聖書と呼ばれるものができた、という流れ。 旧約聖書の成立をペルシャ帝国の裏付けという政治的な要因から説明しているが、その根拠というか想像の理由にあるのがペルシャ帝国のエジプト統治の手法においている。 それは、ペルシャ帝国がエジプト王朝を断絶させず、継続した王朝としたから、というものである。 説明としてはわかるが、せめてペルシャ帝国側の資料、たとえばパピルスとか石板とか粘土板みたいなものが発見されればよいのだが。
加藤隆『『新約聖書』の誕生』(講談社)
講談社学術文庫だが、読んだのは電子版。 新約聖書の中身、つまりどういうことが書いてあるか、ではなくて、新約聖書がどのようにして成立したか、というのを説明する本である。 『旧約聖書の誕生』の続きのようなテーマだが、そこまで関連性はない。 新約聖書というよりも、初期キリスト教というか、紀元前後あたりの歴史や政治的な動きを中心に新約聖書という書物が成り立つまでの流れを推測を交えて解説する本である。 イエス自身は特に新たな宗派や宗教を立ち上げたというよりは言わばユダヤ教の熱心派のような動きをしていた、という考察は面白いと思った。 その後、ユダヤ教ナザレ派とでも呼ぶべき集団となり、ユダヤ戦争を経てユダヤ教がファリサイ派が中心となってキリスト教へと分離し、マルキオン聖書がきっかけで聖典をまとめようという機運が...というのが雑なまとめになるだろうか。そこそこのページ数はあるが意外とすぐに読めた。
有隣堂YouTubeチーム『老舗書店「有隣堂」が作る企業YouTubeの世界』(ホーム社・集英社)
神奈川県横浜市の伊勢佐木町に本店がある有隣堂のYouTubeチャンネル「有隣堂しか知らない世界」のチャンネル開設時から登録者数20万人達成までの流れを担当者が振り返る本。 合間に出演者や有隣堂社長、プロデューサや中の人のインタビューが挟まる形式。 有隣堂は高校時代に横浜に行く際は大抵ジョイナスの有隣堂に向かっていた(横浜そごうにある紀伊國屋にも行っていたが)。 また、高校の図書室の買い出しで伊勢佐木町の本店にも行ったことがある。 司書教諭が本店の向かいにある喫茶店でお茶をおごってくれたのを覚えている。 「有隣堂しか知らない世界」は企業のYouTubeチャンネルとしては異色で宣伝色がほぼなく、有隣堂のスタッフや出版社の編集者、食品会社の社長などが各々好きなものについて語る構成になっている。 確か、Twitterで「有隣堂のYouTubeチャンネルが面白いぞ」という話を見かけて見始めた。 当然、有隣堂は知っていたので見てみたら、テレビ神奈川でやっていたsaku sakuのフォーマットでびっくりした思い出がある。 有隣堂の社員と外部のスタッフであるプロデューサや中の人の間の信頼関係が強く、それが「有隣堂しか知らない世界」の面白さの土台になっている、というのが本を読んで感じた要素である。
バート・D・アーマン『書き換えられた聖書』(ちくま学芸文庫)
新約聖書の本文批評の専門家による新約聖書の写本や聖書の改変・改竄の歴史についての本。 文庫化前の邦題は『改竄された聖書』であり、よりストレートな書名だったが、文庫化の際に改題した模様である。 西洋における活版印刷はグーテンベルクを待たなければならず、それまでは人の手によって聖書の写本が脈々と受け継がれていった。 つまり、手作業によるミスは発生しうるのである。 また、偶発的なミスではなく意図的に書き換えたり加筆削除したりして作業者やそのグループの考えや意図を本文に入れるということも行われた。 著作権もない時代ならばそんなこと当たり前だと思うのだが、聖書の場合はそう簡単には片付けられない問題なのである。 筆者は元々アメリカの福音主義(たぶんファンダメンタリズム?)の立場から聖書研究を始め、次第にその考えに疑問を抱くようになり...という筆者の「告白」が長いまえがきにある。 筆者が至った結論は個人的には普通であるのだが、福音主義という立場から学術的なアプローチから疑問を抱いてその結論に至るというのは非常に感銘を受けた。 写本に関する基本的な知識は田川建三『書物としての新約聖書』でだいたい知っていたので新たな発見!というのはなかったが、非常に面白く読めた。 マルコ1章41節の考察は面白かった。イエスは憐れんだのか、怒ったのか。 意味的な考察は注解書を読まないとわからない(ので田川建三『マルコ福音書 上巻』の該当箇所を読んだ)が、本文は「怒った」なのだろう。
バート・D・アーマン『キリスト教の創造』(柏書房)
新約聖書やその外典、偽典に関する一般向けの本。 副題は「容認された偽造文書」という刺激的なものである。 ここでいう偽造とは、筆者自ら著者名を偽ったもので、マタイのように後から筆者をあてがわれたものについては偽造とまでは言っていないが、擬似パウロ書簡やペテロ書簡一・二についてははっきり偽造と言っているのがすごい強気であると感じた。 まあ、著者名を偽って自説を広く伝えようとしたのだから偽造である。 本文は、古代における文書偽造の立ち位置(当然、悪いこととされていた)、ペテロやパウロの名前で生み出された文書について、現代の護教的な立場からの説明への反駁、ユダヤ教や異教徒と戦うための偽書など、新約聖書には著者名を偽った文書が収められていることを根拠を示しつつ説明する。 筆者曰く、使徒行伝もルカまたはパウロの伝道旅行の同伴者を騙った偽書である、と結論付けていたが、個人的には違うと思う。 無理してパウロを持ち上げる必要もないと思う。 持ち上げたくなる理由も一応わかるのだが。
高田裕美『奇跡のフォント』(時事通信社)
UDデジタル教科書体の開発者による開発秘話。 筆者が書体デザイナーになる前(高校時代)から話が始まり、師匠との出会い、社会に必要とされるフォント制作などの話題が概ね時系列順に進み、合間に関係者によるコラムが挟まる形式。 UDデジタル教科書体はタイプバンクのフォントであり、開発途中でモリサワに買収されることになる。 書籍の後半ではモリサワと筆者のUDデジタル教科書体の開発を巡る緊張関係が中心であり、ドキドキする内容である。 テーマはまったく異なるが、『老舗書店「有隣堂」が作る企業YouTubeの世界』とある意味では形式が同じである。 現代の明るいノンフィクションはこういう流れが一般的なのだろうか。