何かを書き留める何か

数学や読んだ本について書く何かです。最近は社会人として生き残りの術を学ぶ日々です。

『キリスト教思想への招待』を読んだ。

今年の連休は10連休であったが、『キリスト教思想への招待』を読み始めたのは7日目である2019年5月3日、読み終えたのが2019年5月4日と連休後半どころか終盤である。 何か意味がありそうなことをやるために5,6日も充電しなければならない。 あまりにもフットワークが遅い。 それだけ疲れがたまっていたのであった。 今年の2月から4月は仕事のゴタゴタで精神的に疲れることが多くかなりきつかった。 幾分それも回復してきた最中で積読を少しでも解消しようと読み始めた。

閑話休題田川建三キリスト教思想への招待』(勁草書房)を読んだ。 新約聖書学者である筆者が創造論、教会論、救済論、終末論の4つを題材に現代(書かれたのは2003年)でも「我々にとって学ぶに価するすぐれたものがいろいろ見出される。それを拾い上げて紹介しよう」(ivページ)という本である。

第一章「人間は被造物」は、「我々は今はもう、神様のことなんぞは考えなくてもいいけれども、古代人の考えた創造信仰をもう一度謙虚に受け止めなおす必要があるのではなかろうか」が話題の中心である。 宗教批判を通して現代批判を行う筆者の鋭い論考が面白い。

第二章「やっぱり隣人愛」は隣人愛について、「かなりな偽善ではなかろうか」と牽制しつつもその隣人愛をヨーロッパ社会がどのように実現してきたかという話題を中心に論を進める。 新約聖書を読んでも隣人愛を感じるのはルカの「よきサマリア人のたとえ」ぐらいで愛の要素をそれほど感じなかったが、隣人愛を実践しようとする人々がいるから今の社会の仕組みがあるのか、と感じた。

第三章「彼らは何から救われたのか」は救済について、古代のキリスト教徒は何から救済されたのか、という話題が中心である。 「その人々が義とされる。無料で、神の恵みによって、キリスト・イエスにおける贖いを通して。そのキリストを神は宥めの供え物として定めた。信によって。彼の血において。」(ローマ3:24-25)がポイント。 彼らは宗教から救済されたのだ、という話題から親鸞絶対他力に話題が発展するのが面白かった(小並感)。

第四章「終れない終末論」は…読んでいない。 というのも、『新約聖書 訳と註』の第七巻「ヨハネ黙示録」以前の記述であり、『訳と註』の解説に飛ばしてほしい旨があり、それに従った。

コンパクトにまとまっている本なのですぐに読むことができる。 興味があればぜひ読んでいただきたい。