何かを書き留める何か

数学や読んだ本について書く何かです。最近は社会人として生き残りの術を学ぶ日々です。

2024年に読んだ本

雑な読書記録

買っても読まず、読んでも特に記録を残さずに思い出に残らないので、年単位で読んだ本と簡単な感想を残しておくことにしよう。 いつも、書評を書こうと思い立つもすぐに断念してしまうので「簡単な感想」にとどめてそのハードルを下げるのが目的である、と言っておきながら5年目である。 過去のリストは以下の通り。

自分が読み返して「こんなの読んだのか」と感慨に耽るのが目的なので、気楽に読み流してほしい。

犯罪学教室のかなえ先生 『世の中の8割はどうでもいい。』

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人生をバランスよく生きてくための「テキトー術」を、『人生がクソゲーだと思ったら読む本』で話題を呼んだ自称・日本一テキトーなVTuberが説きます!

大学の同級生が編集を担当した、ということで購入。 筆者はVTuverで、学生時代や法務教官時代の経験を元に「テキトー」に生きる方法を描いたエッセイ。 8割はどうでもいいとかテキトーという言葉から投げやりな生き方をなんとなく想起してしまうがそうではなく、自分でどうしようもない部分に悩む必要はない、というのは面白い視点であった。 語りかける文体ではありつつも読みやすいというも面白い。語りかける文体は得てして読みづらい代物になるのだが、読みやすかった。 エッセイという体歳上、個人の経験がベースであり、何らかの論文や研究がベースになっている主張ではないことは一応気にしておいてもいいかもしれない。 なお、肩書に「日本初の元国家公務員の男性VTuber」とあるが、あまくだり氏の方が早い気がする。 もっとも、現在のあまくだり氏はVTuberではなくYouTuberかつカードショップオーナーである。

マウンティングポリス『人生が整うマウンティング大全』(技術評論社

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人間関係あるところにマウントあり,マウンティングを制する者こそが人生を制する。

全体の三分の二はカタログ的にマウンティングの事例を集めたもの、残りは人生に基づく人生訓、といった構成である。 人はマウントしたがるものである、自分に秘めるマウント欲も否定せず、相手のマウント欲を尊重しつつコミュニケーションするとうまくいきますよ、というのが主題だろうか。 とはいえ、かなり穿ちすぎな本である。 「マウンティング枕詞」も、無意識にマウントする人には有効かもしれないが、意識して、つまりメタメッセージにマウントを織り込んで話す人々には逆にそれを見透かされる気がしてならない。 「マウンティングエクスペリエンス(MX)」の考察も雑で楽しい読み物の域を超えない。

もっとも、こういう書評めいた感想を書く行為こそ筆者からすればマウンティングである、と言われるのだろう。

岡奈津子『新版 〈賄賂〉のある暮らし』(白水社

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ソ連崩壊後、独立して計画経済から市場経済に移行したカザフスタン。国のありかたや人びとの生活はどのような変化を遂げたのか。

市場経済化したカザフスタンの生活実態に迫った研究書。 JETROの『アジ研ワールド・トレンド』の記事をまとめ、一般の人にも読みやすくしたものである。 〈賄賂〉と括弧つきなのは、賄賂とお礼の区別が厳密に定義できないという故である。

カザフスタンという国をあまり知らなくても、そこまで興味が無くてもものすごく面白く読める本である。 何をするにも賄賂、賄賂と日本では考えにくい状況が展開される。 賄賂が横行するのは給与が低いせいだ、という言説もカザフスタンの実態の前には不十分である。 まず、仕事を得るにも賄賂が必要であり、しかもその職を維持するにも上司に上納金を送るなど、構造と賄賂が一体化しているため、単に給与を上げても解決しない。 また、仕事を得る際に賄賂を払っても、市民からわいろを受け取ればペイできる、つまりある種の投資でもある、という主張にもびっくりした。 なお、新版で追加された解説によるとカザフスタン全国民が賄賂を使っているわけではなく、旧ソ連の国々と比較するとそこまでひどい国ではないらしい。

一度絶版になった本だが、やはりちゃんとした本は復刊するのである。 手に入りやすくなったので、カザフスタン中央アジアにそこまで興味が無くても読んでみてほしい。

ジェフ・ホワイト『ラザルス』(草思社

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北朝鮮はなぜミサイルを撃ち続けられるのか? 警察庁等が名指しで非難したハッカー集団の痕跡を追跡。もはや軍事組織と呼ぶべき北朝鮮サイバー部隊の実態とは?

英国BBCの系列であるBBCワールドサービスのポッドキャスト『The Lazarus Heist』の書籍版、という位置づけの調査報道ノンフィクション。 偽米100ドル札の「スーパーノート」から韓国、ハリウッドへの企業や金融機関へのハッキング、バングラディシュ中央銀行への搾取、ランサムウェアまで、 北朝鮮が国家的に関わっていると強く疑われる犯罪、特にハッカー集団による攻撃についての調査報道である。 僕の脳内にある北朝鮮像は本書第2章「破産国家」で描写される過酷な状況だったり、国営放送の特徴的なアナウンサー、将軍様などハッカー集団やサイバー部隊といった言葉とは結び付かないイメージだが、 本書に描かれているのは(第2章「破産国家」はともかく)北朝鮮が何としても生き残るために手段を選ばず外貨を獲得する姿である。 「ハッカー集団の痕跡を追跡」とあるが、本書で大部分を占めるバングラディシュ中央銀行への攻撃に関する記述は資金洗浄に関する話が大半である。 本書に登場する実行犯の大半は検挙されておらず、資金洗浄のいわゆる末端作業を担っていた人物が逮捕され、何らかの裁判を受けたにすぎず、北朝鮮サイバー部隊は依然として検挙されずにいる。 北朝鮮のサイバー部隊は、全員が全員ではないと思うが、過酷な身分制を乗り越える手段として自分の才能をサイバー部隊に向けているため、多少平和な日本の若い人とは置かれている状況が全く違う。 第2章「破産国家」で描写される過酷さが、洗練された犯罪手法に昇華しているのだろうか。

警視庁にサイバー警察なる部署があったり、各種自衛隊の情報機関など、日本にはこのようなサイバー部隊はいるのだろうか。 我々のような一般的な読者は変なメールを開かないなど、自衛するしかないのだろうか。

読んでいて気になった箇所。 P.104にDDoS(分散型サービス拒否攻撃)の説明があるが、説明されているのはDos(サービス拒否攻撃)に留まる内容で分散型という言葉に関する説明がない。 P.243に「東京の北にある茨城県」とあるが、北東だと思う。 P.255に以下の記述がある。

私の協力者の話だと、≪ササキタダシ≫という日本名は”吹き出しそうになるほどありきたり”な名前で、欧米で言うなら"ジョン・スミス”のようなものだと教えてもらった。

著名なのは近江源氏の佐々木氏などあり、昔からある日本の苗字(氏?カバネ?)だが、偽名として笑うほどありきたりだろうか。 「タダシ」も正なのか忠なのか忠司わからないが、偽名として笑うほどありきたりだろうか。 偽名ならば、という前提で、「サトウタロウ」や「タナカイチロウ」の方が”吹き出しそうになるほどありきたり”な名前だと思う。 むしろ、「ササキタダシ」は偽名か本名か判断が難しいラインではないか。 実際、≪ササキタダシ≫なる人物は実在し、原著者がインタビューしている。

田川建三『イエスという男 第二版[増補改訂版]』(作品社)

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エスキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である。歴史の本質を担った逆説的反逆者の生と死!

新約聖書学者の田川先生のイエス論。 初版は三一書房で1980年、第二版は作品社から2004年に刊行。 昨年読んだ、清水俊史『ブッダという男』(筑摩書房)のタイトルのインスパイヤ元でもある。

他のイエス論を読んだことがないので比較は難しいが、福音書やラビ関係の書籍からナザレのイエスの人物像に迫った本、というべきだろうか。 『新約聖書 訳と註』とは異なり、田川先生が考えるイエス像による想像というか推測もあるが、それでも福音書やラビ関係の書籍を根拠にどういう人物であったを描写している。 同業者に向ける容赦ない批判はやはりすごいというか、自分が同じ目にあったら泣いてしまいそうである。

田川先生と言えば、『新約聖書概論』など、未刊行の書籍がいくつかあるが、果たしてそれは刊行されるのだろうか。 ホームページは3年ほど更新されていない。 そもそも、どこから刊行されるのだろうか?作品社か勁草書房ぐらいしか思いつかないが。

言語技術の会(編)『実践・言語技術入門』(朝日新聞社

publications.asahi.com

あいまいな日本語表現を再検討し、国際化時代に通用する論理的な文章と話し方のための技術。 これまでの作文教育では不十分だった「事実を伝える」「物事を説明する」「自分の考えを述べる」ことに慣れるための練習問題付き。

Twitterで書名を見かけたので入手。

巻末の経歴によると、「言語技術の会」は1977年発足の学習院教育問題調査会の国語教育分科会が前身で、1983年に改称した。 要は学習院の教員からなる団体である。 着目すべき点は、著者陣に『理科系の作文技術』で有名な木下是雄がいることである。 ちなみに学習院大学名誉教授、元学習院大学学長と書かれている。 その他のメンバは学習院の小中高の教員や学習院女子の教員からなる。

冒頭に次のような文言がある。

この本の主眼は、具体例を通して情報・意見・意図の伝達に必要な心得を浮かび上がらせることなのです。 いちばんのポイントは、事実(実見したこと)と意見(自分が考えたこと)とをはっきり区別して扱うことです。

これだけで、この本はいい本であるな、と感じた。 記述に関するページ数は100ページ前後にコンパクトにまとまっており、個人的には『理科系の作文技術』よりも簡潔で読みやすい。 『実践・言語技術入門』を読んだ後に、とある本を読んだら根拠のない意見の羅列で唖然としたぐらい『実践・言語技術入門』は良い。

朝日新聞出版はこの本を今すぐ復刊するべきだと思うが、『理科系の作文技術』や『レポートの組み立て方』に同じような記述があるかもしれない。 ちなみに、僕が学部生の頃に読んだのは『理科系の作文技術』ではなくて『レポートの組み立て方』である。

また、現在の学習院はこのような取り組みは行っているのだろうか。 論理的な文章というか、読みやすい文章を書く技術は必ず役に立つので、取り組み続けていていたら良いなと思う。

エドガー・カバナス、エヴァ・イルーズ『ハッピークラシー 「幸せ」願望に支配される日常』(みすず書房

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「ハッピークラシー」は「幸せHappy」による「支配-cracy」を意味する造語。誰もが「幸せ」をめざすべき、「幸せ」なことが大事――社会に溢れるこうしたメッセージは、人びとを際限のない自己啓発、自分らしさ探し、自己管理に向かわせ、問題の解決をつねに自己の内面に求めさせる。それは社会構造的な問題から目を逸らさせる装置としても働き、怒りなどの感情はネガティブ=悪と退けられ、ポジティブであることが善とされる。新自由主義経済と自己責任社会に好都合なこの「幸せ」の興隆は、いかにして作られてきたのか。フランス発ベストセラー待望の翻訳。

心理学の新しい分野として登場した「ポジティブ心理学」なる概念を批判した本。 ポジティブ心理学は根拠に乏しいし、何なら悪影響でもある、というのが続く。 批判はともかくとして、幸福概念に対する信奉者の行動力は驚くべきものがある。 むしろそちらの方がびっくりした。

以前、最初から炎上が見えていたプロジェクトに参画させられそうになった際に、そのプロジェクトの旗振り役の人物が異常なほどポジティブだったのを思い出した。 結局、そのプロジェクトは関わることはなかったが、当然のように炎上していた。 異常なほどのポジティブさは「社会構造的な問題から目を逸らさせる装置」なのかもしれない。

V林田『麻雀漫画50年史』(文学通信)

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これも麻雀漫画、これが麻雀漫画。だから楽しい!

好事家がまとめた、1970年代から現代の2020年代までの50年にわたる麻雀漫画の歴史をまとめたもの。 元々は筆者が主催するサークル「フライング東上」の同人誌がベースになっている。 同人誌がベースなのだが、国会図書館明治大学現代マンガ図書館での調査、関係者へのインタビューなど、質が高くてびっくりした。 筆者の思い入れのある作品の記述量が他と比べてやはり多くなる、個人の感想や感情が入るなど、やはり学者じゃなくて好事家がまとめた歴史ではある、とは感じた。 しかし、筆者の思い入れが入っているからこそ無味乾燥した歴史ではなく、読み応えのある麻雀漫画の歴史になっている。 麻雀漫画を読んだことが無くても、麻雀のルールに対して詳しくなくても、中々のページ数を感じさせずあっという間に読めてしまう。 そして、本書に上げられている漫画を読みたくなるはず。 僕は『麻雀飛翔伝 哭きの竜』の電子版をとりあえず揃えました。

能條純一哭きの竜』(小学館

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鳴くと必ず和了る男がいる。男の名は竜。 鳴くことで運を引き寄せ、勝負に勝つ。 そんな竜の強運を手に入れようとする男たちがいた。

竹書房『別冊近代麻雀』で連載された麻雀漫画の代表作。 購入したのは小学館から出た文庫版の電子版。 ストップモーションを駆使した外連味溢れる演出は今もなお色褪せていない。

ひとつさらせば自分をさらす

ふたつさらせば全てがみえる

みっつさらせば地獄がみえる

みえるみえる堕ちる様

竹内理三『日本の歴史 武士の登場』(中央公論新社

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平安末期、東西の辺地から登場した武士たちは、都の貴族にかわって平氏政権をうちたてる。驕れる清盛死してやがて壇ノ浦合戦に至る波瀾の時代。

『日本の歴史』の6冊目。 前九年・後三年の役保元の乱平治の乱治承・寿永の乱と古代から中世への移り変わり、武士の台頭を中心に記述したもの。

『武士の登場』で着目すべきなのは本文ではなくむしろ2004年に追加された「解説」である。 今までの「解説」は思い出話だったり、研究の進展の解説だったりとある意味穏便な解説だが、『武士の登場』の入間田氏による解説は、悪く言えば本書の主張の否定、よく言えば本書を現代の研究者が乗り越えるべき壁と位置付ける、という内容になっている。 先に「解説」を読んだので、『武士の登場』を読み進めるのを躊躇していたが、読み始めると意外にもするすると読めるのが不思議である。 『平家物語』などの軍記物も積極的に記述に取り入れるなど、今となっては、という本かもしれないが、1960年代までの理解である、という前提で読み物として読むとやはり面白い。 紙面の都合か、平家が没落する箇所はあっという間に過ぎ去ってしまう。 紙面の都合とは思うのだが、その儚さは心に打つものがある。

清水俊史『初期仏典の解釈学』(大蔵出版

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なぜ〈聖典〉はいつの時代でも〈正しい〉のか? “仏陀の言葉”に遺された矛盾- この「つまずきの石」は初期経典編纂時から問題視されていた。以来、連綿と続けられてきた〈解釈〉のメカニズムを、上座部註釈家の思想とともに解明する。

仏典、特に上座部仏教(パーリ仏教)における解釈に関する研究書。 序論と本体を構成する3部とまとめ、という構成で、「第一部 聖典解釈の法理」で言わば理論の話、「第二部 上座部註釈家の思想」で解釈の具体論、「第三部 上座部註釈家の系譜」は註釈家に関する話題を扱う。 僕は上座部仏教どころか仏教自体を碌に知らないので、専門用語(かつ、仏教だと常識と思われる用語)が出てきても「そういうのがあるのね」という軽い態度で読み進めた。

最初にびっくりしたのが、「第一部 聖典解釈の法理」の「第三章 了義・未了義」で、要は仏陀の言葉には文字通り受け取ってよい箇所(了義)と、文字通りには受け取ってはいけない箇所(未了義)がある、ということである。 何ら仏教について重きを置かないのであれば、「仏陀だって人なんだからたまに矛盾したり違うことを言ったんだな」と思うのだが、仏典を聖典とするならば、そのような立場は許されず、色々と理屈を立てて調和的に解釈していく。 解釈も科学的というか、現代的な見方だと納得はしにくい(と感じた)のだが、仏教としては緻密に論理立てていく姿とその熱意にはある種の感動を覚える。 「第二部 上座部註釈家の思想」で面白かったのが「第三章 獄卒論」で、地獄にいるという閻魔様や獄卒は地獄にいて苦しまないのか?という疑問に対する解釈に関する章である。 そもそもとして、閻魔が仏教ではなくインドの神話から輸入された概念で、必ずしも仏教的な存在ではなかったものの、(雑に言えば)特別な存在なんですよ、という解釈を持ち込んで何とかしたり、獄卒に対する議論も興味深かった。

ページ数もそこそこあり、値段もそれなりにするが、『ブッダという男』(筑摩書房)を読んで面白かったのならば、読む価値がある本だ。

中溝康隆『巨人軍vs.落合博満』(文藝春秋

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1993年12月、40歳落合博満のFA移籍は事件だった。巨人にとって落合がいた3年間とは何だったのか――?

スポーツグラフィック誌NumberのNumberWebの好評連載を加筆修正したもの。 憶測で語られがちな話題を、当時の報道や記録、当事者が語ったインタビュー本を通して、落合博満の巨人時代に迫る。

『巨人軍vs.落合博満』の特色は豊富な引用で確実に迫ろうとしていることであり、弱点は豊富な引用以外の取材がないことである。 異常に悪く言えば、(憶測だが)国立国会図書館大宅壮一文庫にある資料だけで書かれた本であり、存命である関係者の新たなインタビューなどが存在しない。 そのため、ノンフィクションというよりは、レポートや研究という側面を強く感じた。 登場人物を名前で呼称したり、代名詞(三冠王、オレ流、背番号6、若大将、背番号8など)で呼称したりと、源氏物語のように時が経つにつれて官位が上がって呼称が変わる訳ではないので混乱はしないものの、好事家出身の著者らしい筆体は好みが分かれるかもしれない。 個人的には、やや軽い印象を受け、レポートという印象を受けたのかもしれない。

しかし、当時の報道や記録だけで、下手な憶測や願望を入れずに、巨人時代の3年間を描こうした筆者の狙いは成功していると思われる。 中日監督時代にも通じるプロフェッショナル意識や意外とシャイな面もあったりと、落合博満というプロ野球選手の凄みが垣間見える気がした。

新庄耕『地面師たち』(集英社

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ある事件で妻子を亡くした拓海は、大物地面師・ハリソン山中のもとで不動産詐欺を行っていた。次に狙うのは市場価値100億円という前代未聞の物件。一方、定年間近の刑事・辰は、彼らを追ううちにハリソンが拓海の過去に関わっていたことを知る。一か八かの詐欺取引、難航する捜査。双方の思惑が交錯した時、衝撃的な結末が明らかに。圧倒的なリアリティーで描く、新時代のクライムノベル。

積水ハウス地面師詐欺事件を題材にした小説。 先にNetflixでドラマ版を視聴した後に、原作小説を読んだ。

原作小説の参考文献であるノンフィクションは図書館で借りたものの、伝聞調の文体が気に入らず、まったく読まずに返却していた。 ドラマが面白い、という評判は多く耳にしていたが、実際にドラマを視聴すると、寝るのを忘れて見続けてしまった。 原作である小説も、ドラマでストーリーの筋を追っていたので一気に読めてしまった。

原作小説とドラマは、大筋では同じものの、脚色や細かい差異は結構多い。 実際に本人確認をするシーンでは、映像の力もあり、脚色も増えて、ドラマ版の方が見ごたえがある。 一方、人間関係の描写については小説の方が細かく、背景も描かれている。 小説だと食事シーンや飲食物に関する描写で登場人物の心境を表現しようとしているが、ドラマだと食事シーンはほとんどなく、ドラマのキモにはなっていない(はず)。 それぞれ、媒体の特性を生かしたものになっていて面白かった。

新庄 耕『地面師たち ファイナル・ベッツ』

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シンガポールのカジノで元Jリーガーの稲田は全財産を失い、失意のどん底にいた。一部始終を見ていた大物地面師・ハリソン山中は、IR誘致を見込んだ苫小牧の不動産詐欺メンバーの一員として稲田に仕事を依頼する。日本に戻り、稲田はディベロッパーの宏彰、支援者の菅原と共に準備に入るが、予定していたプランが突然白紙となる。一方、警視庁捜査二課のサクラは、ある不動産詐欺の捜査過程で地面師一味の関与を疑い、捜査を続けていくうち、逃亡中のハリソン山中が趣味の狩猟で頻繁に北海道を訪れていたとの情報を掴むが――。

『地面師たち』の続編で、舞台を高輪から北海道へ、ハリソン山中の仲間も総入れ替えで、再び地面師詐欺に挑む。 こう書くと、誰が主人公なのかわからないが、詐欺に加担する稲田、騙される不動産業者ケビン、警察のサクラの視点から作品が描かれる。 前作におけるハリソン山中のイメージとドラマのイメージは微妙に違ったが、今回のハリソン山中はドラマのハリソンがずっと脳内にいた。

本作は、月並みな言葉だが、人間の弱みにフォーカスして物語が進む。 前作は、いかに地主になりすますか、にフォーカスしていたが、今作はニンベン師のような飛び道具は少なく、人間の弱みに付け込んで、というのが根底にある。 特にケビンに関する描写は読んでいて辛くなる。

続編もドラマ化してほしい。

新庄 耕『地面師たち アノニマス

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100億円という前代未聞の不動産詐欺を成し遂げた彼らが地面師になるまでを描く、それぞれの前日譚――。

小説『地面師たち』の脇役たちの前日譚をまとめた短編集。 小説やドラマでは拓海の過去が描かれていたが、それ以外のメンバの過去はほとんど描かれていない。 小説だと、ニンベン師の長井についてはほんの少しだけ触れられていたが、それ以外のメンバの過去はごく断片的な記述に留まっていた。 『地面師たち アノニマス』は、小説やドラマでは触れられていない過去を掘り下げる内容になっている。 小説『地面師たち』の前日譚だが、ドラマ版を彷彿とさせる描写も多く、図面師(情報屋)の竹下はドラマにおける狂気を感じるセリフ(アドリブらしい)がタイトルになっている。 ドラマに対する評価の1つに、拓海以外の登場人物の過去に触れる描写がなくて物足りない、というのもあるが、『地面師たち アノニマス』はそれに対する答えの1つになっていると思う。

最近、闇バイトの報道をよく見聞きするが、その元締めのイメージとしてハリソン山中(つまり豊川悦司)がチラつく。 ドラマのハリソン山中は地面師だが、小説のハリソン山中は地面師以外にも詐欺をやっている。 演者が演じた人物像と演者自体の人物像はまったく異なるのは千も承知だが、それでもチラつくのである。