何かを書き留める何か

数学や読んだ本について書く何かです。最近は社会人として生き残りの術を学ぶ日々です。

役に立つとは何か

就職活動に限らず大学で学んだことを誰かに話すと「それは何かに役に立つのですか」という反応が返ってくる。所謂工学系に属する人達はそれなりに自信を持って如何に自分の研究が世の中に役立っているかを示すことができるであろう。一方、理学系や人文科学系に属する人達ははっきりと述べることは難しいことが多い。これを解決するにはどうすればよいのか。

僕は2つ考えた。

  • 応用を見つける
  • 気にしない

前者は普通工学と呼ばれるものであり、理学系においては有力な手段であるが人文科学系では相当厳しいと思われる。ここでは後者について考えてみたい。気にしない、というのは相当難しいことで難しくないならばこんな記事を書こうという動機すら存在しないはずである。この難題を考えるためのヒントとして『荘子』の内篇から逍遥遊篇を引用する。以下に引用するのは恵子の批判と荘子の反駁からなる2つの問答で、荘子本人の作ではなく内容に即して付け加えた話と考えられているものである。

荘子 内篇 逍遥遊篇 四

恵子、荘子に謂いて曰わく、「魏王、我れに大瓠の種を貽れり。我れこれを樹えて成り、而して五石を実たす。以て水漿を盛れば、其の堅きこと自ら挙ぐる能わず。これを剖きて以て瓢と為せば、則ち瓠落として容るる所なし。キョウ然として大きからざるには非ざるも、吾れその無用なるが為めにしてこれをウチワりたり」と。荘子曰わく、「夫子は固より大なるものを用うるに拙なり。宋人に善く不亀手の薬を為る者あり、世世絖をサラすことを以て事と為せり。客これを聞き、其の方を百金にて買わんことを請う。族を聚めて謀りて曰わく、我れ世世に絖をサラすことを為せしも、数金に過ぎず。今一朝にして技を鬻ぎて百金となる、請うこれを与えんと。客これを得て、以て呉王に説けり。越に難あり、呉王これをして将たらしむ。冬、越人と水戦して、大いに越人を敗れり。地を裂きてこれに封ず。能く不亀手するは一なるに、或いは以て封ぜられ、或いは絖をサラすより免れざるは、則ち用うる所の異なればなり。今、子に五石の瓢あり、何ぞ以て大樽と為して江湖に浮かぶことを慮えずして、其の瓠落として容るる所なきを憂うるや。則ち夫子には猶お蓬の心あるかな」と。

荘子 内篇 逍遥遊篇 五

恵子、荘子に謂いて曰わく、「吾に大樹あり、人これを樗と謂う。其の大本は擁腫して縄墨に中たらず、その小枝は巻曲して規矩に中たらず。これを塗に立つるも、匠者顧みず。今、子の言は大にして無用、衆の同に去つる所なり」と。荘子曰わく、「子は独り狸牲を見ざるか。身を卑くして伏し、以て敖者を候い、東西に跳梁して高下を避けざるに、機辟に中たりて、罔罟に死す。今、夫のリ牛は、其の大なること垂天の雲の若し。此れ能く大たるも、而も鼠を執うること能わず。今、子に大樹ありてその無用を患う。何ぞこれを無何有の郷、広漠の野に樹え、彷徨乎として其の側に無為にし、逍遥乎として其の下に寝臥せざるや。斤斧に夭られず、物の害する者なし。用うべき所なきも、安ぞ困苦する所あらんや」と。

いずれの問答も恵子が役に立たないものとして大きな瓢箪や大木を取り上げ如何に役に立たないかを説くがそれに対して荘子は見方が間違っていて大きな瓢箪は湖に浮かべたり大木は何も無いところに植えてその下に寝そべり考え事をすればよいと説く。また、人間世篇には狂接輿の言葉として次のような一節がある。

荘子 内篇 人間世篇 八

「山の木は我とわが身を損ない、灯火は我とわが身を焼きつくす。肉桂はなまじ食用になればこれ伐られ、漆はなまじ有用ならばこそ割かれる。人は皆な有用の用を知りて、無用の用を知ること莫きなり」と。

つまり、人々が次々と口にする「役に立つか」というのは有用の用を意味するのである。無用の用には目もくれず有用の用をしか考えないのである。無用の用の無用は世間の人々にとっての無用であり、その無用に着目しその用に気づくことが大事なのである。科学の発展がその典型例である。


「用うべき所なきも、安ぞ困苦する所あらんや」、役に立つことがなくても気にする必要は無い。