強烈凶悪なDéjà-vu
フレクスナー 、ダイクラーフ著『「役に立たない」科学が役に立つ』(東京大学出版会)を読んだ。
きっかけは三重大の奥村先生のツイートで本書のことを知ったことである。
『「役に立たない」科学が役に立つ』、おもしろそう! ありがとうございます😊 pic.twitter.com/0Z4Kc64tXh
— Haruhiko Okumura (@h_okumura) 2020年7月20日
筆者のエイブラハム・フレクスナーはプリンストン高等研究所の初代所長、ロベルト・ダイクラーフは現在のプリンストン高等研究所所長である。 構成として、前半にダイクラーフのエッセイ「明日の世界」、後半にフレクスナーのエッセイ「役に立たない知識の有用性」からなり、随所に用語の説明が入る。 巻末に本書に登場する研究者の紹介や本書の企画(理化学研究所数理創造プログラム)が掲載されている。
実質的な表題である「役に立たない知識の有用性」は1939年10月のハーパーズ・マガジンに掲載されたエッセイで応用研究重視への危惧、基礎研究の有用性、プリンストン高等研究所の紹介からなる。 「明日の世界」は基礎研究が築き上げた人類の知恵が長い時間をかけて社会を変えてきたことを実例に基づいて紹介するエッセイとなる。
読んで真っ先に感じたのは、1939年10月に書かれたエッセイだとは思えない、またアメリカにおける状況とは思えないのである。 ダイクラーフ氏の「日本語版刊行にあたって」にある
日本はこれまで、私が直接知る人も含め、多くの優れた科学者を輩出してきましたが、これはひとえに、日本においては基礎科学研究の重要性が一般に理解されて、尊重されているからだと思います。
という言葉に思わず変な声が出てしまった。 果たして、日本はそのような状況なのだろうか。
基礎科学と応用科学に関する似たようなテーマとしてはハーディの『ある数学者の生涯と弁明』がある。 久しぶりに読み返したくなった。
フレクスナーやダイクラーフは「役に立たない知識の有用性」の発想の根源をニュートンに置いているようであるが、私はもっとさかのぼれると思う。 実際、荘子の人間世篇の「無用の用」が「役に立たない知識の有用性」の根源ではなかろうか。 人類は2000年費やしても「無用の用」を理解できずにいるのである。