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何かを書き留める何か

数学や読んだ本について書く何かです。最近は社会人として生き残りの術を学ぶ日々です。

電気通信大学大学院を修了します

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世の中には勤めている企業などを退職した際に退職エントリと呼ばれる釈明文を書く慣わしがあるらしい。私も今年の3月をもって電気通信大学大学院博士前期課程を修了する。学部を含めて6年も通ったので私にも退職エントリならぬ修了エントリという釈明文を書く権利があると思い、大学・大学院生活の思い出話を書いてみることにする。

大学入試

当初は東京工業大学第1類(理学部)が第一志望だった。中学生の頃は社会科が好きで当初は文系のつもりだったが高校二年生あたりから数学に興味を持ち大学でも数学を学んでみたいという気持ちが強くなっていった。Fermatの最終定理に関する一般向けの本や啓蒙書も読んでいた。だがセンター試験では数学2Bで酷い点数を取り7割ぐらいしかできない英語・国語をカバーするという思惑が外れてしまう。某予備校のチューターからは地方の国立大学の理学部数学科を提示されたが下宿は無理だった。某予備校の自習室で項垂れてセンターリサーチの冊子を眺めていたら電通大の広告を見かけた。確か高校の友達がここを受けると言っていたな、と思い自分の結果と電通大のボーダーラインを見てみたらA判定を叩き出した。某予備校のA判定は8割ぐらいの合格率なのでこれは合格できる、しかも新宿から15分とはとても近いと電通大に強く興味を持つようになる。高校入学以前から国立大学に執着していた。色々と悶着が合った末、前期日程は東工大、後期日程は当初の横浜国大から電通大へ変更した。なお併願校は学習院理学部、立教大理学部、東京理科大理学部、早大基幹理工、早大教育であった。結果として学習院、立教大、電通大に合格した。その程度の学力だったということである。同級生は2月中に進路を、早い人は11月ぐらいに決める中、国立組は卒業式になっても進路未定という寂しい状況だった。電通大は後期で受かったために私の進学先を知らない人が多いのではないかと邪推している。浪人は一切考えなかった。電通大でも数学そのものじゃなくて暗号理論や情報理論など数学に近いものが学べそうであったこと、受験勉強をもう1年続けるのは耐えられないと思ったからである。

学部1年

電気通信学部情報通信工学科に入学した。それなりに期待して入学したものの講義が面白くなかった。線型代数天下り的に基本変形を教えるだけで今思うと工学的な要請でとにかくやり方を教えるだけで数学的な面白さが無かった。サークルも通学距離の関係上夜遅くまで参加することが出来ないので加入せず、学友会・生協学生委員会系統も胡散臭さを感じて入らず講義を受けて帰るという生活だった。恐らく入学前にダミーサークルなどの話を聞いていて余計に胡散臭く感じていたのかもしれない。幸い、電通大はクラスでほぼ同じ講義を受ける形態だったので孤立することは無かった。もし他大学のようにバラバラならば詰んでいたかも知れない。基礎セミナーという前半はオムニバス形式、後半は各研究室に配属されてセミナー形式で学ぶ講義があった。前半は大して面白くなかったが後半のセミナーでアルゴリズムの話をやって先生(後の副指導教員)に褒められた思い出がある。入学前辺りにLaTeXの存在を知り、基礎物理実験の第一回レポートから使い始めた。前期は法学Aと露語第一を落とした。人並みにアルバイトも始めた。高校生の時に通っていた某予備校の大学生チューターとしてアルバイトを始めた。決して予備校は慈善事業ではなく利益を求めなければならないという現実を知った。地元にある某予備校グループの塾でもアルバイトを始めた。大学生チューターは1年生で辞めたが地元の塾は学部4年の前期まで続けた。夏休みはキングダムハーツをずっとやっていた。サークルにでも入っていれば合宿などがあったのかもしれないが。調布祭は参加せず課題として課された解析学の無限級数の問題をひたすら解いていた。そのレポートが調布祭に参加していた人達に売れた。実際は1回だけ食神を奢ってもらっただけであるが。
後期になっても大半の講義は面白くないのだが一つ面白い講義があった。それは離散数学第一という講義である。離散数学とは言え実態は集合、論理、写像、関係という離散数学に限らず現代数学において欠かせない概念を説明する講義だった。(今思えば)基本的なこととは言え当たり前なことから当たり前ではないことを示すその過程が面白かった。他の人には難解な講義だったらしい(履修者の25%近くが不可)が目的が明快な楽しい講義だった。

学部2年

1年生の成績が芳しくなくこのままではよくないと思い2年生から一念発起してまじめに勉強することにした。きっかけとなったのが電磁気学第一・同演習という講義である。第一回演習の結果がB×とCでこのままでは単位を落とすと確信し附属図書館で猛勉強もとい参考書から解答を抜き出して納得する作業に取り掛かった。勿論参考書と同じ問題だけではないので似たような問題を探し解答を万年筆で書き下す作業を淡々と行った。演習の時間の前の昼休みには私の周りに人が集って答え合わせやそのまま写していた。所詮私も参考書から写しているだけなので対価を要求することは無かった。寧ろこちらから積極的に提供することでこちらからも要求し易い雰囲気を作り互いにこの難局を乗り切ろうではないか、という思惑だった。その目的を達成するためによく勉強会を開いていた。附属図書館にはグループ学習室という便利な施設がありそこで行っていた。私の意図としては各々が得意な分野で全員を引っ張り、苦手な分野は周りに助けてもらう、という相互互助な会がやりたかったのだが実態はほぼ全教科できる人達に出来ない人達が群がるという構図だった。ただ群がるならまだしもその場で得た結果を我が物顔でまた広めたりするという構図もあった。互いに教えあうのが理想だったのにそうならない現実があった。無事電磁気の単位などは取得することは出来たが何ともいえない状況があった。後にある人に「君は利用されているだけだった」と言われたことがある。勿論そうとも言えるが学問は決して独占されるものではなく皆が利用するべきものであり、所詮私が一から考えたものではなく参考書などの先人の知恵を利用させてもらっているだけなので広めるべきだと思う。大袈裟かもしれないが岩波文庫の巻末に掲載されている岩波茂雄『読書子に寄す』の冒頭「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。」の精神に基づいた行動であったとも言える。つまらない講義の群れにも面白いが講義ある。それは英語の講義であった。その講義は講義と言うよりひたすら英語の絵本やリトールドを多読させるセミナーだった。多読させる、といっても強制ではなく自発的に読みましょうという雰囲気だった。今でも英語はそれほど得意ではないが少なくともリーディングで数学に関するものならば英語に関してはそれほど苦ではなくなった気がする(勿論、数学的な問題は残るが)。
後期の講義に深い思い出はないがブランクの時間に勉強をするようになった。調布祭には友達の出店の様子を見つつ研究室見学をした。11月に3年生向け研究室配属のための懇親会があった。当然2年生なので参加資格は無いが話を聴いてみたいと思い忍び込んだ。世話人離散数学第一の先生(後の指導教員)で面が割れていることに気づいたが気にせず乾杯。本当は暗号の研究室や噂に聞いていた信号処理の研究室の様子を見るのが目的であったが先生の研究室が暇そうだったので院生(後の先輩)と話す。何せ面が割れているのでさっさと立ち去るべきだったのに話し込んでいたら先生がやってきた。嘘をついて3年生の振りをしても仕方ないので「2年生です」と告げたら流石に驚いていたが「寧ろやる気があっていいね」と言われた。先生の講義を受けていた、と言ったら「名前何だっけ」となったので名前を告げたら「ああ!君か!」と。その後数学についてずっと話し込んでいた。後に1つ上の研究室の先輩、つまり本来先生と話をするべきだった学生からずっと話し込んでいて近づけなかったと言われた。研究室に入る上で必要な数学は何かとなったときに線型代数がわかればよりよいという話になったかはよく覚えていないが線型代数をやるとよいという話はあったはずである。そこで後日書店に赴き佐武先生の『線型代数学』を購入した。線型代数のちゃんとした教科書としてこれと斉藤先生の『線型代数入門』しか知らず、最初のほうだけ読んで『線型代数学』の方が読み易く感じたのでそちらを選んだ。世間の教科書は『線型代数入門』の一部を極薄にして抜粋したようなものなのでそれでよかったと思う。いざ読み始めてみるとよくわからない箇所があり先生に聞きに行くことにした。そして先生から「じゃあそこに至るまで説明してよ」となり説明を始めた。そこから先生と線型代数の自主セミナーが始まった。自主セミナー自体は自然に学部4年の輪講に昇華した。

学部3年

学部2年までは概ね全員同じ講義を受けるが、学部3年からは大体講義が情報系、電気電子系に分かれる。クラスの人達は大体電気電子系に流れていったので講義を1人で受けることが多くなった気がした。自然と勉強会というイベントを開くことも無くなった。専門講義では情報理論に困惑し、暗号理論に絶望し、符号理論に感動した思い出がある。いずれも数学と関連する講義であるが、情報理論は確率論に慣れておらず、暗号理論は数学を用いず、符号理論は線型代数を用いたのでそのような感想を抱いたのではないだろうか。面白いと感じた講義は離散情報構造特論という大学院の講義である。ある日先生から今からなら始まったばかりだからついていけると思うから大学院の講義に出てみませんかというメールが来た。その講義はAlon, Spencer『The Probabilistic Method』を元にした講義でタイトルの通り確率的手法の講義であった。講義は英語で周りは大学院生だったが平然とした態度で最前列に座りあたかも正規の学生ですよという面をして聴講していた。特に感動したのは今まで宝くじが如何に儲からないかという応用しか知らなかった期待値が数学においてもかなり役に立つということを知ったからである。勿論統計学や工学でも期待値は仕事をしているはずだが純粋数学、特に組み合わせ論においても大活躍していることに感動した。講義後も質問をするなど他の講義よりも熱心に聴いていた。組み合わせ論における期待値は私の修士論文においても活躍しているのでその意味ではとても役に立っている。講義中にKuhn『科学革命の構造』の話題になり「え、知らないの?」と自分の非常識さを思い知らされて早速読んでみたりもした。学科実験という重めの実験も始まった。最も大変だったのは電気電子系の実験だった。電気回路は講義を受けていたがほとんど理解できず試験を過ぎると忘れるという体たらくであり、実験ではICチップを燃やすという事態も起きた。一方信号処理など計算機で行える実験は騒ぐほどの難度ではなかった。寧ろ私の置かれた状況は実験レポートをどうするかよりも自主セミナーの準備をどうするかということである。週1回のペースで行い、厳密に説明しないといけないので非常に大変だった。『線型代数学』の第一章は正直簡単だったが第二章の行列式から大変だった。群論に慣れていなかったどころか離散数学第一で学んだことを完璧に分かっていないといけないのが辛かった(群の剰余類分解など)。また行列式の概念は1年生の講義とは違いきちんと自明ではない証明をしつつ進めるので大変であった。毎週金曜日が実験だったので実験後も実験を進めたり(電気電子系の実験はこれができないから辛かった)土日に実験結果をまとめたりレポートを書き、隙間の時間で『線型代数学』を読むという生活だった。調布祭は研究室周りをした。研究室配属のための懇親会では先生とGalois理論と解の公式の話をしていた。一応、配属面談と言うのも行ったが三次方程式の解の公式の話を1時間程していただけである。週1回セミナーで話をしていれば流石にどんな人物かなんて配属面談をするまでもなくわかる。

学部4年

4年になる直前に地震があった。研究室がある建物が古く窓ガラスが割れたり本棚が倒れたりした。学部4年からは輪講と卒業研究が始まった。輪講で読んだ本は浜田隆資, 秋山仁『グラフ論要説』、絶版であるが日本語で書かれたグラフ理論ではちゃんと書いてある本である。輪講で読んだ、といっても私は輪講に参加しただけで発表者に突っ込んだりする役目だった。私の輪講は『線型代数学』の続きでちょうど第V章のテンソル代数に突入したところであった。卒業するための単位があと1単位であったので不可を消すべく現代数学入門Aという講義を履修した。これは学部1年で落とした論理学の振替だったのでちょうどよかった。内容は集合と位相の基礎だった。周りの学生を脅かそうと松坂和夫『集合・位相入門』を持ち込んでみたが電通大生でこの本を知る人は皆無で担当の先生から「お、松坂先生の本だね、君、再履修かな?」と目をつけられる結果となった。大学院入試も行われた。私は推薦入試を選んだ。まず5月頃に学科長推薦を得るべく学科の面接を受けた。私は学部2年から反省して勉強し始めたのが功を奏して難なく学科長推薦を得ることが出来た。そして7月に大学全体で推薦入試が行われ、これもまた面接である。一応入試であるため律儀に合格掲示を見に行ったが他に見にいく人が誰も居ない程度に落ちる要素が無い入試である。学科面接、推薦入試ともに意思確認程度の面接である。面接とはいえ殆どはGPAで決まる世界である。先生からは「別に一般入試でも受かるでしょ」と言われたがそう簡単にはいかない世の中になっていた。一般で受けた知り合いで何人かは落ちていた。数学を本格的に学ぶために別の大学院へ進む選択肢もあったかもしれないが、数学専攻としては何も知らない学生であり、組み合わせ論で生きる上では電通大でも問題が無いと思いそのまま推薦を選んだ。数学を真摯に学んだとは言え結局数学科の学生が学部で習う範囲である。8月ぐらいに『線型代数学』を終えて卒研に向けて動き出した。卒研中間発表はグラフ理論に関するSzemerédiの正則化補題について話した。グラフ理論はSzemerédiの正則化補題の登場で大きく変わったと私は思っている。卒研自体は同期が発表した論文を題材に改良に取り組んだ。最終的には使わなかったがMathematicaを用いてグラフ理論に関するプログラムを書いて実験を行ったりもした。無事審査で合格し卒業することが出来た。

修士1年

学部3年の時に学科改組が行われ大学院は改組後の専攻に属した。大学院で驚いたのは必修の講義が複数あること、選択科目を20単位も取得しなければならないことである。問題はその選択する講義が改組後の専攻の講義であるため前提となる知識が全く無い状態で講義を選ばなければならないことであった。全く専門外である経営工学に関する講義やセキュリティに関する講義、ネットワークに関する講義などは大変であった。また大学院にはオムニバス形式の講義が複数あり中途半端な講義にならざるを得ない状態に困り果ててしまった。役に立たない講義でも考え方によっては意味があったりもする。コンピュータに関する話をオムニバス形式の講義で聴いていたが面白くなかったので出てきたキーワードを検索していたら荘子という春秋戦国時代の宋の哲学者を知った。面白そうだったので『荘子 内篇』を購入し読んでみたらやはり面白く感動した。役に立つとは何か - 何かを書き留める何かなどにその一端がある。
学科改組の影響でMathematicaのライセンスが切れて使えなくなり、代替としてSage Math を使うようになった。SageはPythonがグルー言語として使われているのでPythonも使い始めるようになった。ゼミはB. L. van der Waerden 『Algebra』を読んだ。既に第7版でドイツ語を英語に訳したものを読んでいた。抽象代数学の教科書の開祖とも言える本で加群が登場せず古いといえば古いのだが王道をつき走る構成である。群から始まりGalois理論や体の無限次拡大までを読んだ。秋頃からは就職活動も始まった。博士課程も考えたが社会に出るならば早めに出たほうがよいだろうと思い就職することにした。今では博士後期課程に進んだ後大学教員ではなく企業に進むケースも増えてはいるがそれならば早く社会に出たほうが活躍できるのではと考えた。色々調べていくうちに大学教員の枠は想像を絶するほど狭いことがわかり、それに動じない心を持ち合わせていなかった。夢や霞を食べて生きていけるならばよいのだが私はそこまでの人ではなかった。就職活動に関する雑感などは

にあるのでここでは深くは触れないことにする。一つ言えるのは自己分析なるものを嫌っていたことである。自己分析の怖いところはその結果を盲信してしまうところである。過去の自分がそうだったから未来の自分はこうなるとは必ずしも言えない。過去の自分から脱却し変わることもできるのだから未来のことなどわからない。自己分析で自分の未来を歪めてしまうのではと恐れて自己分析をしなかった。この考えをどう思うかは個人の自由であるが。
とにかく就職活動でゼミや後輩の世話が難しくなった。学部の友達は別の専攻や別の研究科、大学院へ進んでしまったので孤独であった。

修士2年

就職活動は6月まで掛かった。大学入試でも感じたことだが私の進路は良くも悪くも数学と共にある。センター数学で失敗したり数学で点数を稼いだり、数学を懸命に勉強した結果就職活動で煙たがれたり興味を持ってもらったり、と。数学に振り回されつつ数学と共に歩んだ。高校を卒業する際に各々がクラスの皆に今後の目標や夢を語る機会があり、そこで「数学者になれるかはわからないが、数学を仕事にしたい」という旨の発言をした覚えがある。結果的にそうなりつつあるのが不思議である。大学入試も第一志望であった東工大から電通大へ、仕事も数学者から数学を使う(またはちゃんと知っている)技術者へと。『Algebra』も読み終わりいざ修士論文へ、となるが代数そのものを研究対象にするには余りにも数学専攻としては基礎的なことしか知らないという現実を知った。そこで代数と組み合わせ論整数論の辺境へその活路を求めた。その結果等比数列の密度に関する論文を見つけ、その改良を行ったのが前期である。等比数列なのである意味では当然かもしれないが改良するために素数に関する結果が必要と分かったのが面白かった。後期は前期の内容の改良に取り組んだが限界を感じて別のテーマを探した。結果的にグラフ理論に関する問題の改良に取り組んだ。修士論文としては等比数列とグラフに関する結果を並べて掲載し提出し無事合格した。Python修士論文でも数値実験のためにも使った。論文は本質的にはすべて理論であるから数値計算は不要であるが、Pythonで計算して正しいことを確信してから証明を書き出したり既存の研究との比較に数値を代入して計算したりする際に用いた。とても便利な言語である。修士論文の発表会で怒りを覚えたことがあった。ある学生が偶々その場を外していた先生の看板を借りて自分の質問を正当化しようとしていたことである。はっきりと自分の意見として「あなたの研究は研究のための研究で役にたたない」といえばよかったのに、と思った。別に役に立たなそうと思うのは勝手だが、それを自分の意見として言わずに教授という権威をもって主張してくる態度に怒りを覚えた。「あなたの研究は役に立っているのですか、今後の課題とか言っている時点で役に立っていないのでしょうね」と言い返したい衝動に駆られた。博士前期課程(修士)とはいえ研究者の端くれであるのだから自分の意見を持って自分の責任で主張してほしい。学問に対して今このときに役に立つのかという短絡的な価値観・思考は危険だと思う。この辺りの感情は荘子の影響を受けていると思う。学部も修士グラフ理論で論文を書いて学位を得たので私の専門は組み合わせ論であると言い張ることも出来るが学部や修士でひたすら学んだのは代数であり、本当の専門はわからない。今後の仕事で役に立ちそうなのは代数であるので決して無駄ではないと思う。3月に掲示板を眺めていたら無事修士(工学)の学位を得ることを確認できた。只管数学の勉強や研究をしていた学生生活の結果として工学の学位(学士、修士)を貰うというのは何とも不思議な話である。

最後に

幾度も「面白くない講義」という言葉が登場したがそれでも私は電通大が好きである。確かに講義は面白くないが大学の存在は講義だけではないからだ。今時の数学科の学生すら読まない数学書を読み発表するという地味な学生生活だったがとても面白かった。学士・修士学位論文も数学、組み合わせ論であり他の電通大生とは異なる人生であることもまた面白い。結局大学とは与えられるのを待つ場所ではなく自ら求める場所である。学部1年の頃に溝上慎一『大学生の学び・入門』という本を読み、「大学とは与えられるのを待つ場所ではなく自ら求める場所である」という旨が書いてあったような覚えがあるがまさにその通りであった。大学は講義を行う場であるという認識では少なからず悲劇を生むことになる。
少し後悔していることは数学を共に学ぶ友人が存在しなかったことである。よき友人は数多くいるがいずれも数学とは違う工学を学んでいて数学に関しては先生の助けを借りながら一人で読んでいた。最終的には一人で読まないといけないがそういう人がいた方がよりよい学生生活になっていたかもしれない。
4月からは社会人である。どのような社会人となるのかはわからない。余り自分の人生を決め付けずに生きたい。